ショパンの20番目のノクターンと呼ばれる楽曲
その背景と事情,オーディオ抜粋とともに

English
English

楽曲冒頭
クラウディオ・アラウ
(フィリップス・レコード, 1978年)
フレデリック・ショパン(1810-1849)によって作曲されたピアノ曲の冒頭部をお聴きください.この曲は世界中で非常に良く知られていますが,これはショパンの意図していたことではありませんでした.

おそらくショパンのノクターン第20番嬰ハ短調に違いないと思うでしょう.それは長年の間に刊行されたたくさんのエディションや録音上の標記にすぎません.

この曲の制作背景やその後の物語は,このように単純に作られたタイトルが伝えてくるものより,より複雑で興味深いものです.ショパンはこの曲にノクターンというタイトルをつけたことは決してなく,また楽譜が出版されることも望んでいませんでした.

Chopin's Portrait by Kwiatkowski
ショパンの肖像画
テオフィル・クウィアトコウスキー画

🍃

フレデリック・ショパンは完璧主義者でした.人生を作曲に捧げ,現在の私たちが知っている出版物に至るまで長い時間をかけて修正を繰り返しました.ショパンにとってピアノでの即興は比較的簡単なことでしたが,作品を書いてアイディアを完成させることはなかなか骨の折れることでした.1849年死の床で,ショパンは家の引き出しやかしこにある出版されていない楽譜はすべて燃やしてほしいという遺言を残しました.彼にとって,自分がはっきり認めた出版物以外の作品を次世代に知られるということは,耐えられないことでした.

しかし,彼は,彼の短い人生における数多くの機会において,新しい作品を出版社に送ることなく特定の個人に寄贈していました.これら直筆の寄贈品が経年劣化を生き抜いていることがある種の奇跡だと思うわけであり,実際多くの場合,自筆譜よりも写譜のみの方が現存しているわけです.寄贈の原稿は冒頭に「献呈」と書かれている多くの出版物とはきわめて異なることに気づいておくことは重要です.寄贈の場合,贈り手に事実上捧げているというだけでなく,おそらくショパンはただただ他の誰に見られることを望んでおらず,そのままにしておきたかったのだということです.

🍃

1830年11月2日,まだ20歳の頃,ショパンは生まれ育ったポーランドを離れました.これがポーランドとの最後であり,二度と戻らなくなることになるとは考えてもいなかったにも関わらず・・・.首席で音楽大学を卒業し,校長のエルスナーは次のシンプルな言葉で彼を評しました-「特別な才能,音楽の天才」.一方,ワルシャワにいたときに,いくつかの作曲とその演奏で大きな評価を得ていました.その中には両方のピアノ協奏曲も含まれていました.

ショパンがポーランドを離れた一番の理由は,唯一無二のタレントとして,ウィーン,パリ,そしておそらくロンドンの,ヨーロッパにおける音楽・芸術的なハブを純粋に求めていたからでした.
November 1830 Warsaw Uprising
1830年11月ワルシャワ蜂起
(ウィキペディア)
Russian Attack on Warsaw Sep 1831
1831年9月ロシアによるワルシャワ攻撃
(ウィキペディア)

彼が最初に立ち寄ったのはウィーンでしたが,半年ほどで滞在を切り上げ,その後パリへ拠点を移しました.そこで実質上人生の最後まで過ごすことになります.友人のタイタスを帯同してウィーンに到着,そして間もなく,ワルシャワ蜂起のニュースを知ります.それは,ポーランド軍士官候補生たちがコンスタンチン大公を暗殺するためベルヴェデル宮殿を襲撃したものの失敗に終わり,これがロシア占領軍に対する新たな戦いを引き起こし,多くの流血や弾圧をもたらしたというものでした.その結果,占領軍はポーランドのレジスタンスたちに対して以前よりも厳しく取り締まるようになりました.ショパンは失意のどん底で日々新聞を読んでいました.タイタスはすぐにポーランドに戻り戦いに加わりましたが,ショパンは自身虚弱であったこと,またショパンのポーランドへの帰郷を固辞する家族からの手紙もあり,そのような考えにも至りませんでした.ショパンはロシア軍の兵士が母,父,2人の姉妹ルドヴィカ(3歳年上)とイザベラ(1歳年下)のいる生家を奇襲するような想像に耐えられませんでした.彼は後にこう書いています「私は(ワルシャワを)出てしまったあの瞬間を呪っています」[1].

1831年9月ロシア軍がポーランドのレジスタンスを完滅させるまで,ワルシャワは何か月も厳しい状況に置かれました.しかし,ショパンの苦悶は家族や友人との文通によっていくぶんか和らげられ,それによって,愛する人たちが少なくとも暴力のもたらす最悪の事態からは逃れられていたことを知ります.一方,彼はウィーンでホームシックと孤立感を感じていました.このような感情はこの時期に書かれた多くの作品に注がれています.

🍃

The Kolberg copy
コルベルクの写譜 — いくつかあるうちの一つ
全ての譜面が紙一枚に収まっている
(chopinonline.ac.uk)
この時期(1830年頃)に作曲されたと思われているピアノ曲で題名がなく,手書きの指示のみが残された作品があります.

"Lento, con gran espressione"
(意味は「ゆっくり,表現豊かに」)

彼はこの作品の写譜を家族宛の手紙に同封し,以下の献辞を示しました.

「姉のルドヴィカのために,私の
協奏曲2番の練習開始前に弾いてください」

(ピアノ協奏曲ヘ短調)

おそらく,ルドヴィカはこの写譜を彼女の短い人生の残り期間の中で大事にしたのでしょう.何年もの後,ルドヴィカは,彼女のショパン作品リストの中で,この作品を「レント,ノクターンのように」と書き,さらに「ウィーンから私へ送られたもの」と付しています[1].

数年後に早送りしましょう・・・ショパンは1849年,39歳の年に結核にて生涯を閉じました.ルドヴィカは弟の最期に立ち会うためパリに向かいましたが,彼女も6年後,1855年に亡くなりました.この作品の写譜は20年後1875年に,ポーランド人のショパンの最初の伝記作家によって発見されました.彼はポーランドの出版社に「アダージョ」(!)という一般的なタイトルで出版するよう説得しました.現代の版は,幸運なことにルドヴィカの標記を優先し,一般的にはノクターンとして分類,出版されています.ポーランドではこの作品はしばしば「回想ノクターン」として知られていますが,11月のワルシャワ蜂起後の述懐というだけでなく,ショパンの驚くべき自己引用に基づくものだということが分かります.

🍃

ショパンの完璧主義に思いを馳せると・・・少なくとも1830年の時点で,ショパンはこの作品を家族,特に姉のルドヴィカ以外の誰にも決して見られたくなかったということを認識しておく必要があります.彼は短い人生を通じて18のノクターンを出版社に送りました.それとは別に彼が10代のときに作曲した1つで,(彼の遺志に反して)死後に発見され出版されたものがあり,それはしばしばノクターン第19番(ホ短調)とされています.したがってレントはしばしばノクターン第20番遺作(遺作[Op.posth.]の意味は死後に出版されたもので作品番号はつかない)と分類されます.エキエルらによる権威あるポーランドナショナルエディション-今日5年に1回ワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールの推奨版-では,この作品をノクターン集に含めていません.そして「ノクターン」という言葉を使わずに,遺作集の中の1つに含めています.

ZelazowaWola_PhotoByArkadiuszZiolek
ジェラゾヴァ・ヴォラ,ポーランド
ショパンの生誕地,現在は博物館に
(アルカディウス・ジオレック撮影/East News社)
この作品の公での最初の演奏は,1894年,有名なロシア(!)の作曲家でありピアニストのミリイ・バラキレフによるもので,ショパンの没後45周年記念に際し,ポーランドのショパン生家の外に建立されたオベリスクの除幕式での演奏でした.

どのようなタイトルであっても,レントは現在,世界中で愛されています.彼の生涯の発表作品の中ではとても小さな囁きのようなものに過ぎないにも関わらず・・・.おそらく,そのシンプルさ—彼が出版することを妨げたまさにその要因—が,人気を支えているといえます.いずれにせよ,後世の世代がこの作曲家の死の床での願いに対して敬意をもちながらも目をつぶることを選んだことは,なんと幸運なことでしょうか!

🍂

この贈り物のような作品に移りましょう.これはたったの3ページ(自筆譜では1,2ページ)で時間にしてわずか4-5分です.このわずかなスペースと時間の中で,音楽的な自伝的要素のモンタージュ[1]を含むということが,ショパン作品の中で構成上ユニークである点です.簡潔な導入(1-4小節)の後,嬰ハ短調の主題が提示され(5-20小節),その後ショパン自身の初期の作品から4つもの自己引用が続きますが,極めて重要なことに,どれもまだ出版されていなかったものです.

最初の引用(21-22小節)は彼のピアノ協奏曲ヘ短調第3楽章の冒頭であり,これは本質的な音楽的要素としては同一ですが,原曲の活き活きとした舞踊的なリズムからうっとりするような演奏に変奏されています.彼は調を協奏曲のヘ短調からイ長調に修正しています.原曲(左)と新しく作られたもの(右)を聴いてみて下さい,
F min concerto,
start of 3rd mv.

Artur Rubinstein, LSO/Previn


⇨

Lento, bars 21-22

Claudio Arrau

Lento, bars 25-26

Claudio Arrau
F min concerto,
middle of 1st mv.

Artur Rubinstein, LSO/Previn


⇨

Lento, bars 23-24

Claudio Arrau

Lento, bars 27-28

Claudio Arrau

この直後に,同じ協奏曲の第1楽章中間部から第2の引用(23-24小節)がやって来ます.それに引き続き第1引用が再び登場し(25-26小節)ますが,今度は相対短調である嬰へ短調となっています.そして同様に,これを締めくくるため(27-28小節),再び第2引用が今度は嬰ハ短調で登場します.彼は完璧な音楽センスとバランスを維持しながら,先の音楽要素を新しくインスパイアされた表現で効果的に再掲します.

🍂

この部分は驚くことに休みなしに第3の引用(29-33小節)-彼の書いたピアノとソプラノのための「願い」という歌曲集のひとつからきています-へとまっすぐ入っていきます.曲の特徴としては再び修正されており,原曲の活き活きとしたあるいは陽気なラブソングから,よりうっとりするような演奏となっていますが,調和的で美しい旋律の輪郭は本質的に同一です.
Song "The Wish"
E.Szmytka (sop), M.Martineau (p)

⇨
Lento, bars 29-33
Claudio Arrau

彼は切れ目なく第4の引用(34-44小節)へつなぎますが,これはピアノ協奏曲ヘ短調第3楽章の村の踊りと呼ばれるセクションからきています.異なる楽曲の異なるセクションからの自己引用の数々を直接的に次々とつなげるのに小さな切れ目すらない一方で,常に新しく音楽的に完璧な全体を作り出しています.
F min concerto,
middle of 3rd mv.

Artur Rubinstein, LSO/Previn

⇨

Lento, bars 34-44

Claudio Arrau

その後,最初の心を打つテーマが繰り返され,それに続き,鍵盤上で真珠が転がるようなアップダウンが感情の完璧な弧を描く強さで4回現れます.この曲は静かに相対長調で終わります—バロック時代の1世紀前によくあった練習法で,一般的に悪に対する正義,悲しみと悲嘆に対する希望と楽観の勝利を意味しています.

🍂

レントにまつわるストーリーは実際のところ,上述のものよりは少し複雑です.作曲から6年ほど経った後,1836年ショパンは当日のフィアンセだったマリア・ウォジンスカ(関係は続かなった)のための作品集に含めるため,姉のルドヴィカにこの写譜を作成するよう頼みました.当時彼は21-22小節と25-26小節の引用を「規則化した」[1]ものにしようとしていました.

そもそも彼はこの部分をポリリズムで書いていました.左手の伴奏が4/4拍子で続き,右手のメロディーはコンチェルトからのテーマを同一2小節内で4つの小さな小節を3/4拍子に納めることで正確に響かせます—1830年において極めて大胆かつ珍しく,うっとりするような効果があります.

1830 Autograph
Lento (1830 version)
bars 21-22

Claudio Arrau
Kolberg copy
Lento (1836 version)
bars 21-22

Vladimir Ashkenazy

比較すると,規則化したもの(右側)は,両手が4/4拍子に統一されているため,演奏するにはよりシンプルとなっていますが,一方でこれにより,より型にはまり,滑らかさに欠けていたリズムが犠牲になっています.

🍂

より複雑なのは,ルドヴィカへの献呈であった自筆譜は失われてしまい,知られているのはその写譜とファクシミリだけということです.左上の自筆譜はマヨルカ島ヴァルデモッサのカルトゥジオ修道会所蔵のコレクションからのものです[5].どうやらショパンはこの譜面を教え子の一人であるチャルトリスカ妃へも提供したようです.

したがってこの作品は1つ以上のバージョンが存在していました — 実際、権威ある版では、既知の両方のバージョンが印刷されて再現されています.そして,この作品は少なくとも異なる3人に提供されました.

ショパンがレントを一般大衆向けに出版したわけでは決してないことは明らかであり,そしておそらくこれを準備のための,一方で感情表現豊かな練習曲とみなしていました.

その音楽が後に続く世代の生命を豊かにし続ける天才への最大限の尊敬とともに,ここに初期の自筆譜による演奏の完全記録を掲載したいと思います.

Lento con gran espressione
(1830 version)
Parham Mokhtari, 30 March 2025

翻訳: 齊藤 陽子



REFERENCES [1] Alan Walker (2018)
Fryderyk Chopin: a life and times
Picador (New York).

[2] Wikipedia
November Uprising

[3] Wikipedia
Battle of Warsaw (1831)

[4] Online Chopin Variorum Edition (OCVE)
Digital images of historical copies of the Lento

[5] Fryderyk Chopin Institute online
Presentation autograph of the Lento

[6] Artur Rubinstein (piano) with London Symphony Orchestra, Andre Previn
Piano Concerto in F min, Op.21

[7] Claudio Arrau (piano)
Lento con gran espressione

[8] Vladimir Ashkenazy (piano)
Lento con gran espressione

[9] Elzbieta Szmytka (soprano), Martin Martineau (piano)
The Wish, Op.74 No.1



Copyright ©Parham Mokhtari 2000-2026 Updated: 5 October 2025